脳が存在する目的は「予測し準備すること」です。次に何が起こるかを予期することができれば、先手を打つことができます。予想が的中し、そして対応策が功を奏すれば、生存できる確率は高まります。この予測のために必要なデータは、過去の経験、つまり「記憶」です。
 記憶は「来歴」、つまり過去の蓄積そのものです。だからでしょうか、記憶と聞けば過去を指向したものを想像しがちです。しかし記憶は未来に役立ってこそ意味を持ちます。つまり記憶は、過去を未来につなぐ橋、いわば、未来の自分に贈るプレゼントです。
 学習や経験を通じて脳回路はどんどん変化してゆきます。けっして後戻りしません。これが可塑性(=記憶が残ること)です。
 可塑性がなくても、つまりDNAに刻まれた生命プログラムだけでも、命に別状がないことは、地球上の多くの生物が脳を持たないという事実からも明らかです。しかし、予期せぬ環境に直面したときに迅速に対応するためには、可塑性を備えていたほうが有利です。つまり、可塑性の目的は、環境の変化に対して上手に自分を適応させることです。言い換えれば、可塑性とは「遺伝子で決められたデフォルト状態から、どれだけ自由に飛翔できるのか」という能力のことです。
 こうした生物学的観点から、私たちの研究室では「可塑性」を研究しています。可塑性を十全に発揮すれば、脳に秘められた潜在能力を啓くことができるでしょう。脳疾患からも上手に脱却できるかもしれません。脳の臨界点を探ってみたい――。そんな憧心と童心が、薬品作用学教室における研究のモチベーションです。



現在の研究テーマ

 このサイトでは、現在の研究テーマの一部を列挙しながら説明します。多彩な先端技術と膨大な知識を縦横無尽に活用しながら、脳研究の幅広い分野をカバーしています。しかし、私たちの研究の通奏低音はつねに中枢神経の「薬理学」にあります。 薬理学とは、文字通り薬を理解するための学問です。くすりはなぜ効くのかという疑問に答え、新薬開発の未来の方向性を示すことを究極の目的としています。



1.多数の神経細胞の活動を可視化して脳回路システムに迫る

 神経細胞は巨大な回路を形成しています。反射などの単純な運動から、思考・意識・情動といった高度な心理活動を含めた所為は、すべて神経ネットワーク活動に基づいて実行されます。脳の大規模な神経回路の動作原理を知るためには、(i)多数の神経細胞から同時に活動を記録する実験的手法、(ii)得られた巨大データを網羅的に解析する数理的手法、の二本柱が必要です。私たちは多細胞カルシウム画像化法を確立し、計算負担の少ないスパイク時系列の解析法を編み出してきました。こうした独自の手法を活用することで、メソスコピックな視点から神経細胞の集合特性に迫っています。

   

これまでの代表的な成果
Cell Rep., 14:1348-1354, 2016、Science, 335:353-356, 2012、Science, 304:559-564, 2004





2.パッチクランプ記録で神経回路をリアルタイムに解析する

 パッチクランプ法はニューロンの電気活動を調べる上で有用なツールです。私たちはこの手法を脳スライス標本や生きた動物の脳に自在に適応し、従来の研究では知り得なかった神経情報の処理システムをつぎつぎと発見しています。とくに感覚入力の情報処理やシナプス結合のグラフ理論に興味をもち、計算論的シミュレーションも加味しながら、神経回路の演算特性や可塑性の真髄に迫っています。

    

これまでの代表的な成果
PLOS Biol., 13:e1002231, 2015、Nat. Neurosci., 17:503-505, 2014、Cereb. Cortex, 23:293-304, 2013、Nat. Protoc., 7:1228–1234, 2012、PNAS, 107:10244-10249, 2010





3.神経発達障害におけるニューロン・グリア相関の研究

 脳が正常な機能を発揮するためには、精密に配線された神経回路の存在が必須です。自閉スペクトラム症(ASD)や、広義の神経発達障害に含まれるてんかんでは、神経回路の興奮/抑制バランスが崩れていることが報告されています。この原因は、シナプス形成不全などの神経回路構造の異変にあります。近年、ニューロンによるシナプス形成にはマイクログリアやアストロサイトといったグリア細胞が積極的に関与することが示されてきましたが、そのメカニズムは十分に解明されていません。私たちは、その解明のために、ASDやてんかんのモデル動物を利用して、健常脳および病態脳における神経回路形成への、グリアの関与を調べています。

    

これまでの代表的な成果
Neuron, 74:691-705, 2012、Science, 331:599-601, 2011





4.海馬神経回路の形成機構の解明

 脳機能の正常な発揮のためには、精密に配線された神経回路の存在が必須です。現在までに、海馬の機能不全と種々の脳疾患との関連が報告されています。さらに、機能不全の原因として異所的に配線された神経回路の存在が示唆されていますが、海馬の神経回路形成機構は十分に解明されていません。私たちは、てんかんやうつ病や自閉症のモデル動物を利用して、海馬神経回路の形成異常およびこれに伴う機能異常を、組織学や電気生理学の手法を利用して詳細に検証しています。また、これらの脳疾患に特徴的な神経回路異常を再現する組織切片や初代神経細胞の培養系を精力的に開発し、回路形成異常の細胞生物学的メカニズムの解明を試みています。

    

これまでの代表的な成果
Nat. Med.,18:1271-1278, 2012、Neuron, 76:410-422, 2012





5.多様な脳機能を司る海馬神経信号の解明

 海馬には、動物が特定の位置に存在するときに、選択的に発火する場所細胞があります。こうした場所細胞の活動は、シータ波やシャープウェーブリップル波などの脳波と密接に関わっており、単純な空間表象のみならず、将来の行動設計や連合学習など、複雑な脳機能にも関与することがわかってきました。この問題を深く追究するため、様々な行動課題を設計し、課題遂行中のラットやマウスの中枢・末梢神経の活動パターンを大規模計測します。「予測、連想、順応」など複雑な脳機能を司る神経信号の解読に挑戦しています。



これまでの代表的な成果
Sci. Rep., 6:21293, 2016、Neuron, 86:1265-1276, 2015





6.嗅覚系を用いた神経回路構築とその作動原理の解明

 嗅覚情報は、他の感覚系とは異なり視床を介さず海馬・扁桃体を含む大脳辺縁系へと伝達されています。こうした特徴から、嗅覚は記憶の誘発や情動の誘起と密接に関わると考えられます。匂い情報の認識を担う嗅神経は約1000種類ものサブタイプに分類されます。発生期に、嗅神経はその分類に従って嗅球(脳の一部)上に1000対存在する糸球体(嗅球上の領域)へと軸索を振り分けています。嗅神経で起こる神経活動は、高次能領域への匂い情報の伝達のみならず、この軸索分配、即ち回路構築のプロセスにも重要な役割を果たすことが明らかとなってきています。遺伝子改変技術を用いた特定の嗅神経の選択的ラベリングと光による人為的な神経活動の操作を組み合わせ、匂い情報を処理する緻密な回路の構築メカニズム、更にはその回路を基にした高次能領域への感覚情報伝達の原理に迫ります。

    

これまでの代表的な成果
Cell, 154:1314-1325, 2013、Cell, 141:1056-1067, 2010、Cell,127:1057-1069, 2006





7.池谷脳創発プロジェクト

 脳はどれほどの潜在能力を秘めているでしょうか。「脳力」の上限値はどれほどでしょうか。せっかく脳を持って生まれて来たのだから、 デフォルトの脳の使用法に縛られて 一生を終えるなんてモッタイない ――。私が感じている世界とは何でしょうか、脳はどこまで開拓できるのでしょうか。そんな哲学的な未来を問うのが池谷脳創発プロジェクトです。(1) 脳の活動を自分の意志で自在に制御する、(2) AI(人工知能)を脳にハイブリッド結合して未開拓な才能を覚醒させる、(3) 共感やひらめきを人工的に誘導させる、(4) ネズミに芸術や言語を理解させる、(5) 忘れた記憶の蘇生させる薬を開発する、(6) 微小センサー脳チップの移植して新たな知覚(第六感)を拓く、(7) ヒトのiPS細胞由来神経細胞をネズミの脳に移植して脳回路を異種融合させる、(8) 退屈な感覚を人工的に消す、(9) 腸でAIを作る、etc。多彩なテーマに意欲的に取り組み、人々の知的好奇心を刺激してゆきます。

       

これまでの代表的な成果
PNAS, 112:9740-9744, 2015、Curr. Biol., 21:1091–1095, 2015、J. Neurosci., 34:5044-5053, 2014





8.そのほか

上記のほか、CiNet(大阪)にも兼任しています。CiNetの池谷研究室では、ヒトを用いたfMRIやMEG測定や心理学的実験を行っています。